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森茉莉『私の美の世界』

松田青子の短編を読んでいた時に出くわした固有名詞、森茉莉。マリアと自分のことを呼んでいたらしい。森鴎外の長女である。文体が独特でエッセイイストとして名高い。今回初めて彼女の文章を読んでみたが、その文体に強く惹かれた。句読点の付け方が独特で、何とも言えないリズムがある。本のタイトル通り、独自の美的感覚に溢れている。三島由紀夫、澁澤龍彦、室生犀星、池田満寿夫との交流も描かれている。美しいものに対するこだわりが強く、父親に対する愛情と敬意がそこかしこに見てとれる。鴎外は自分の娘を溺愛していたらしい。


なんといってもこの随筆を貫くキーワードは「美」である。どうやら、森茉莉さんにとっては英語には美がないらしい。


「私は元来は英語は虫が好かない。理由は、女学校で習った、ほんの少しの仏蘭西語が頭に入ってしまって、他の外国語は知らない、それで、英語というものは、やたらに発音しない字がぞろぞろくっついているのが、癇(かん)に触るのである。また読み方が、仏蘭西語を習った人間にとっては思いもかけない読み方になっているのも、癪(しゃく)に障る。Pieはパイらしいが、私にはどう見てもピーであって、パイがピーとは何ごとか、と、私は喫茶店のメニュウをにらんで、いつも不機嫌である。その英語嫌いの私が、ビスケットだけはビスキュイともプチ・フウルとも言いたくない。ビスケットは英国のものだと思うし、ビスケットは英国産の、あの固さと、噛む時の脆さと、仄かな牛乳(ミルク)の香(にお)いと牛酪(バタ)の香い、そうして上等の粉の味を持ったものに限るからである。」

思わず笑ってしまった。英語は確かに綴りと発音が一致しない言語だとはよく言われるが、それだけで、癇に触る、癪に障ると言われても英語の方も困ってしまうだろう。なんだか英語が可哀想になってきた。それでも本物志向の森茉莉にとっては、ビスケットは英語読みでなければならないらしい。この頑固さと決めつけが何とも言えず魅力的だ。この一面はどうやら父鴎外から遺伝しているようだ。


「明治時代にも旧仮名を新仮名に直すという案を出したが、その時にはオーガイという、日本語を絶対にこわしたくない軍医がいて、その思いつきを潰してしまった。彼は間違った字をみると「嘘字だ。嘘字だ」と怒りだす日本語狂いであって、新仮名にすることに殆ど定まりかかっていた会議に出て行って、長い長い話をして、とうとう新仮名遣い案を葬り去ってしまった。」

この鴎外の旧仮名遣いに対するこだわりは凄まじいものがある。漢字や仮名遣いに対する絶対的な美的感覚が鴎外の文章を支えていたのであろう。最後に考えさせられた一文を。


「化学でも数学でも、高等なものになれば知性だけではだめで、ある情緒によって新しい学理のようなものが発見されるらしい。私はそれを岡潔という数学者の文章で知ったのである。芸術の国フランスが偉大な数学者や化学者を持っていたり、化学発達したドイツが素晴らしい音楽家や文学者を出しているのもわかるというものである。複雑緻密な楽譜を正確に演奏しながら、その正確な音譜の群の上に柔らかな光のような、花の香(にお)いのようなものを想わせる偉大な音楽家の演奏は知性と情緒の融けあいであり、感情、情緒から出てくる「感傷」は、音楽の中の、トレモロのようなものだ。」

物事の底流を流れる、情緒、美的感覚、花の香い、この価値を何よりも認めていた人であったのであろう。心が洗われるような文章にいくつか出会った。この随筆はお勧めです。

 

感銘を受けた文章をいくつか紹介します。


「私はフェリイニの「道」の中に、哀しみの底に光る幸福を見た。そうしてそれはピカソのアルルカンの画のように、悲しみの美で、私の心の中を飾った。」

「暗やみの中で好きな花を折れと言われた人のように困り、一人、部屋の中で、病気になった鳥のように、不きげんそうにふくらんでいるのである。」

「与謝野晶子の歌や源氏物語の訳を読むと、真夏の、土埃を浴びて萎れた草花や樹々の葉を見ていた目が突然、夕立に洗われて生き返った庭の草花や樹々の葉を目に入れた時のような、こっちの感覚まで、つられてみずみずしくなってくるようなものを、感じた。」
 

Essays by Mari Mori

When I was reading Aoko Matsuda, I came across a proper noun, “Mori Mari”, who is a renowned essayist and Mori Ogai’s daughter. One key word which is at the core of this collection of essays is “beauty”. Her unflinching sense of aesthetics is a measure of everything. That strong attachment partly derives from his father, who had an acute sense towards characters, both kanji and kana. Ogai never ever allowed the new kana orthography, believing the old one’s elegance would vanish. Mari is convinced that the underlying element that could lead to innovation or new discoveries is this sense of beauty. I was totally captured by her style whose usage of punctuation is quite distinctive.


mari mori

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