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『英語と英国と英国人』吉田健一

最近は中国語を学習していることもあり、外国語習得について(いつもながら)色々と考えている。そこで、久しぶりに吉田健一のエッセイを読む。柳瀬尚紀が「その名を口にすることすら畏怖する人」と形容する程の人物で、あの吉田茂の長男である。外交官であった父親の関係で、小さい時は世界各地を転々とする。18歳の時にケンブリッジ大学に入学、文士を志し、日本に帰国、アテネフランセにてギリシャ語とラテン語を習得するという、華やかな経歴の持ち主である。翻訳家としても群を抜いているが、随筆家としても句読点のない、長い息の文体で知られる名文家である。


「過去から現在に掛けて英語で語られ、又書かれた個々の言葉の集成が英語なのである。それならば、出来ることかどうかは解らないが、一人前の英語が書きたいと、少なくとも思うだけはしているならば、先ず読む他ない」

吉田健一に言わせると、「書く」という行為は特別なものだ。自分の母国語ですら、書くという行為は難しい。日本の高校生であれば夏目漱石の小説は学校で読まされるだろうが、漱石のような文章が書けるのかと言われたら、全くの別物である。それなのに、こと英語になると、一通りの文法を習得していればすらすらと名文が書けるかのような風潮がある。英語が国際共通語として機能するようになった昨今、誰もが英語で自分の言いたいことを発信する機会があるというのは素晴らしい。ただ、大量に良いものを読まないと良い文章は書けないのだ、という簡にして要を得た吉田の文章に触れて、襟を正した。


「語学を最も的確に習う方法は、文学を通してである。これはどういう言語でも、その使い方の最も見事な例は文学作品にあるばかりではなくて、結局は同じことであるが、文学作品で言葉はその最も生きた形で用いられているからである。そして我々は一つの言語を習うのに、何よりもそれで書かれたものに興味を持たなければならない」

全く同感である。この一節を読んで、ソルボンヌでフランス語を学んでいた時のことを思い出した。理系、文系に関係なく、文学を読むことは必須だった。モーパッサン、モリエール、フローベール、ユーゴー、サルトル。各作家の見事な言語の使い方に触れて、言語感覚を磨いていく。全ての学問の基礎は言語を正確に使いこなせるかにある、という教授の一言が未だに印象に残っている。


日本の英語教育では、文学の存在がどんどん薄くなっているような気がします。悲しいことですね。。



吉田健一

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