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特殊な言語日本語を使いながらも、普遍的な表現を目指す−『大江健三郎 柄谷行人 全対話 世界と日本と日本人』を読んで−


この本は大江健三郎と柄谷行人が1994〜1996年にかけて行ったインタビューをまとめたものである。

1994年というと大江健三郎氏がノーベル文学賞を受賞した年で、ストックホルムで「あいまいな日本の私」と題してノーベル賞基調講演を行った。この題名自体は1968年にノーベル文学賞を受賞した川端康成の「美しい日本の私」を意識して付けられた。この本を通して「あいまいな」という言葉の含蓄に触れられたのはもちろん、世界の中で日本人として対話や発信をしていく際に重要なことは何か、という僕にとって最も関心のある問題を改めて考えさせられた。対談相手がイエール大学等で日本文学を教えてきた日本を代表する批評家柄谷行人氏ということで、買わない選択肢はなかった。ジャケ買いである。実をいうと大学生の時の一時期、大江健三郎の著作のみを読み耽っていた時期がある。あの微熱を帯びた文体に惹きつけられた。まさに独特な文体であった。

この本の中で、大江氏は「現実的な」日本人を表現している文学を高く評価する。その代表的な文学として戦後文学の短編が登場する。大岡昇平や椎名麟三などの作家が挙げられる。氏曰く、「戦後直後を生きた日本人の苦しみとか悲しみとか喜びが文学に出ている」。よって、その普遍的なものを翻訳することに価値を置く。その反対ともいえるもので、諸外国に受け入れられているものとして、三島由紀夫の文学が登場する。フランスのインテリなどが日本文学に求めるのは美的なものだという。中上健次の著作であれば、未解放部落に対する差別の問題だけに焦点があたり、中上健次が描いている人間の普遍性には光が当たらない。大江氏はアメリカに行った時に、エドワード・サイードやマサオ・ミヨシなどと英語で話すことがあるという。その時彼が感じるのは以下の感情だ。 「そのグループの中で英語の能力の低さを強く自覚していながら、通訳してもらうよりましだと思うときがあるんです。今、自分を、日本人を表現している。それは美的なものじゃなくて、『私はここに今生きています』ということを表現している、と感じる。それを表現しなければ、ここに自分はいないということもまた、非常に強く感じるのです」 美的な対象として受け止められることを拒否する、という姿勢に感銘を受けた。美的なものよりも人間的な普遍性、それは時に醜さや苦しさを含むものを表現するべきだと僕は解釈した。外国語で自分を表現することは、不完全で、そして時には醜くさえなるであろう、それは美的なものと対極にあるかもしれない。ただ、それは本物であり、現実的なものである。文学者の表現と一般の人たちとの表現を一緒にすべきではないかもしれないが、これは外国語で何かものを発信する時にも同じことが言えるのではないだろうか。理解されやすく、見た目が綺麗で美しいものだけを表現していたのでは、意味がない。時には口当たりの悪い、苦々しい感情を表現する必要もあるだろう。ただそこで大事なのは、不完全でもいいから自分のことを少しでも正確に伝えようとする意思である。 外国語で自分の思いを誤解されないように伝えるのは、至難の技である。その外国語に通じていることはもちろん、その背後にある文化にも敏感でなければならない。この本の中には、その奥深さを体現した例として小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の逸話があり、印象に残った。ラフカディオ・ハーンはイギリス人であるが、島根県で長年英語を教え、日本に帰化した人物である。彼との関連で、津田三蔵がニコライ皇太子を斬り付けた大津事件が登場する。ロシア皇太子への謝罪の電文を作る際、小泉八雲はフランス語で文章を作成する。「深甚なる悲痛の意を表明する」という原文を八雲はシャグランという言葉を使って訳した。その当時彼の周りにはフランス語を理解するものはいなかったので、chagrinという意味はSorrowとPainが入り混じった言葉であると彼の同僚や生徒に英語で教えたという。 相手に誤解なく伝えるためにはどうしたら良いか、これは同じ言語、同じ文化圏で意思疎通を図る時にでもぶつかる大きな問題である。言語が外国語になれば、誤解の確率は更に大きくなるだろう。ただ、この小泉八雲の逸話で思ったのは、常に相手のことを慮ることが重要であるということに尽きる。相手の立場に立ち、どうすれば一番伝わるかを考える、これが第一。ただ、それでも外国語であれば誤解が生じるのは当たり前。ひょっとしたら自分の言っていることは誤解されているかもしれないという前提に立てば、わからなければ質問するという技術も自然と身につくことであろう。繰り返し質問をし、それに対する説明を受けることで誤解が解けていく。World Englishes(簡単に言ってしまえば、世界には色々な英語があっていいという考え)の下では、コミュニケーションの技術として相手に質問する力が益々重要になってきている。小泉八雲のように普遍的なものを外国語で伝える努力をすることに加え、質問する力、これが今後益々求められるスキルになるであろう。 また、もう一つ非常に重要な点だと感じたのは、外国語に訳される時に、その元々の言語の論理性や意味というのは翻訳可能か否かという問題である。日本語であれば、日本人によってのみ理解される仕方で書いたり、日本の文脈の中でのみ通用するような論理展開をしていていいのかという問題。大江氏は自分の言葉が他の言語に訳されるという前提に立って、普遍的な言葉を紡ぐことがいかに重要かを説く。「英語に訳された瞬間に、自分のものの考え方や思考の展開の仕方が本当に壊滅的な打撃を受ける」という。この件を読んで、ずっと前に読んだニュースを思い出した。ある銭湯において、「外国人入浴禁止」の張り紙があったという出来事だ。これを英語に翻訳した瞬間、人種差別であり、国際社会においてはタブーであることは一目瞭然である。この類の話は政治的なものも含めれば枚挙に暇がない。自分の言葉が外国語で翻訳されても堂々と発表できる内容でなくてはならないこと、ダブルスタンダードを持たないこと、これは今後の国際社会で生きていく上で必須である。日本という島国の「特殊性」などといった空想や甘えは許されない。

 

最後に「あいまいな」という言葉に戻ろう。英語で言えば、vagueやambiguousなどの単語が心に浮かぶ。柄谷氏によれば、大江氏の基調講演のタイトルの「あいまい」はvagueではなく、ambiguousを使うべきだという。vagueの反意語がclearであるならば、ambiguousの反対はambivalentである。ambiguousの訳語としては「両義的」あるいは「両価的」などがある。愛があれば憎しみもある、愛着の裏には嫌悪がある。我々の感情は通常コインの裏表のように両義的であるけれども、ambivalentな態度というのは、「それをクリアにしようと、一つの方に決めてしまうということ」という。以下引用する。 「神経症というのはambivalentであり、精神分析の治療というのはambiguousにすることだという。それは葛藤の原因を取り除くことではなくて、たんにそれを知ること、つまり、解決できない状態に自分があることを素直に認められるようになることですね。両義性を肯定できることが『治る』ということなんでしょう」 この箇所は目から鱗であった。どうも最近日本を礼賛する書籍が多くて目に余るほどだ。日本の方がドイツに優れている、日本の方が中国よりも優れている、など。全てambivalentである。日本にも悪い点はたくさんあるのだと認めること、まずはそこからだろう。そう言えば、日本の作家は晩年を迎えると得てして日本の古典がいかに素晴らしいかを語りがちだが、大江健三郎は違う。源氏物語などの古典文学の重要性を説きながら、ディケンズやドフトエフスキーの素晴らしさを語る。ambivalentになることで、1つの文学の優位性を誇示し、他を切り捨てることを決してしない。英語、フランス語、日本語の間を行ったり来たりすることで、「あいまいさ」を保ってきたのであろう。最後に大江氏の次の文学世代に向けたメッセージを引用して終わりたいと思う。 「特殊な日本人の特殊な言語日本語を使って表現して、特殊な言語の独自性は保ち続けてもらって、しかも普遍的な表現にしてもらいたい」 日本人として外国語を使っていく際に重要な心構えがこの本にはたくさん詰まっている。この本を通して、大江健三郎の国際性に触れ、人間の普遍性を常に追求してきた文学者の覚悟に改めて敬愛の念を抱いた。外国語でコミュニケーションをするということの本質に触れたい方全員に強くお勧めしたい一冊である。

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